百物語 その6『鵲』

夜の海は、鯨が並んで泳いでいるみたいだ。黒く激しくうねり、この船を木の葉のように翻弄する。
僕は、かじかむ手を擦りながら、手摺を掴む。黒い雲が低く重くのしかかり、黒い海との境目は、白い波頭だけ。船に揺られていると、まるで、暗闇に逆さに投げ込まれたような感覚になる。
すぐ近くを航行する僚艦の識別灯ですら、波に隠れ、はっきり見えない。こんな天候では見張りの意味があるとは思えない。それでも、僕は、この吹きっさらしの甲板に居続けなければならない。ただ、手摺に掴まり続けるためだけだとしても。
「今日も、星は見えぬか」
突然、背後からの声に、僕は反射的に立ち上がった。だが、敬礼をする前にふらついて、手摺に腰をぶつけそうになった。耐えられたのは、頑丈な手が僕の腕を掴んでくれたからだ。僕は、何とか体勢を整えると、あらためて敬礼した。
後藤水雷長だった。
水雷長は、コートの襟を立て、僕の背後に立っていた。いつのもように優しげな微笑みを浮かべていた。
「失礼しました。何かありましたでしょうか」
水雷長は片手をあげ、敬礼を制した。
「なに、すこし眠れなくてな」
「それで、星…ですか」
水雷長は、苦笑いをした。
「川田上等兵のように水雷長は詩人だ、と思うか」
僕は、首を横に降った。確かに、鬼の川田は、たまに水雷長をそのように揶揄する事があった。水雷長はその事を知っていたのだ。
水雷長は、見張りに戻るよう指示した。
僕は、曖昧に歪む水平線を睨む仕事に戻った。水雷長が背後で立っている事は、気配でわかった。
「私は古い船乗りだからな。星が見えぬと落ち着かぬのだ。それにな、鵲(カササギ)は、七夕には天の川に橋を架け渡すのだぞ」
「この船が、橋を、ですか?」
それは、この水雷艇の名前だった。隼型水雷艇、その二番艦『鵲』。排水量152トン。大日本帝国海軍が誇る最新艦だ。旅順閉塞作戦に参加するため、日本海を航行中だった。
「鳥の鵲だ。隼型水雷艇には、鳥の名が付いている。鵲も鳥の名だ。橋をかけると…知らんのか? 百人一首にもあるだろう?」
「水雷長は士族の出ですか?」
「なんだ。突然に」
「いえ。色々なことをご存知ですので」
「ふん。」揺れる甲板の上で、仁王立ちに立ったまま、水雷長はため息をついた。「俺が生まれた時には、戊辰戦争は終わってたよ。俺は刀もまともに振れやしない。なにが侍なものか」
水雷長は、私の隣の手摺に持たれかかり、遠くを見ていた。そして独り言のように小さく呟いた。
「俺の父は、故郷の浜辺で、いつも海を見ていたよ。いつまでもずっと、海の向うを。何を見てたのやら……なぁ」
「水雷長には、海の向うに何が見えますか」
僕は、つい、そのように言ってしまった。そんな事を、上官に問うた事に自分でも驚いた。
水雷長は、ふ、と下を向いて笑うと、手摺から体を離し、私の肩に手を置き、言った。
「知っているか、露西亜の女は大層、助平だそうだ。作戦が終わったら、街へ行くぞ。」
水雷長は、そう言うと笑いとばした。
いつのまにか、雪が降りはじめていた。
海の上を降る雪は、海に積もらぬかわりに、艦の上をあっという間に白くした。
水雷長は、雪化粧の鵲を満足げに眺めると、艦橋を指差し、言った。
「見ろ。『白きを見れば夜ぞ更けにける』だ」
僕は余程、きょとんとした顔をしていたのだろう。
僕の顔を見て、水雷長は大声で笑った。
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