百人一首物語 その36 「夏の夜」

どれほどの時間、甚兵衛と向かい合っていたのだろうか。
どこの雲に隠れていたのか、今まで姿を見せなかった月が、甚兵衛の背に見えた。その事で、ようやく夜明けが近い事に気が付いた。
となると、どれほどの時間、こうして甚兵衛と向き合っていたのだろうか。
夜の暗さ、闇の深さには、甚兵衛も、そして当の誠志郎も慣れていた。それは若い頃からの鍛練によって培われた暗殺者としての、裏の技術だった。
お互いの姿はしっかり見えていた。それでも、向かい合ったまま動けないのは、お互いの件の技術が伯仲している事を、なによりお互いが知り尽くしているからだった。
その長い時間の間に、交わされた撃込みは、五合。その五合で、甚兵衛は左二の腕と手首を、誠志郎は右の太股に、傷を負っていた。その手傷から、満足な技は既に出せないであろう。だが、次の一撃が全てを決める事を、甚兵衛も誠志郎もわかっていた。同じ道場で、幾度となく闘っていた2人だから。
 誠志郎は、突然、構えを変えた。得意の八双から剣を青眼に移し、ゆっくりと上段へ掲げるように構えた。
 甚兵衛は、その動きに合わせるように、少し剣を下げ、右足を大きく引いた。
誠志郎には、1つの確信があった。
この勝負を決めるのは、剣の腕でも、体力でも、ましてや身分でもない。ごくつまらないキッカケなのだと。そして、誠志郎と甚兵衛の人生を、ここまで違うものにしたものも、そんなつまらない事なのだと。
誠志郎は、西の空の月に気が付いた。
甚兵衛も、また、東の空に気が付いている筈だ。
誠志郎は、背中に微かな熱を感じはじめていた。
陽が昇りはじめた。
甚兵衛は、青眼に刀を戻し、足を大きく運んだ。このままでは、敵に朝日を背負わせてしまう事に気が付いたのだ。眩しさに、怯んだ隙に、撃込まれてしまう。その事に甚兵衛は気付いたのだ。
位置を変えた甚兵衛を見て、誠志郎は、焦りの色を滲ませた。
誠志郎は、上段に構えた刀を、慎重に動かした。
甚兵衛は目を閉じた。
その瞬間、全ての力を振り絞り、誠志郎は上段から刀を振り下ろした。
朝日を背負う策略を見抜いたと、甚兵衛は油断した。誠志郎は、その油断につけ込み、上段に掲げた刀で朝日を反射し、目眩しを仕掛けたのだ。
誠志郎は、誘ったのだ。
誠志郎の刀は、甚兵衛の肩を割り、深々と肺の臓に達した。
甚兵衛も気付いたのだろう。
自嘲の笑みを、臆面もなく誠志郎に向かって投げると、血の泡を口角に浮かべながら、自分の不運を呪うと、地面に崩れ落ちた。
誠志郎は、袂の懐紙で作法にのっとり、隠しとどめを刺すと、脚を手拭いで縛り、朝日を背に歩き出した。
若い頃の思い出が、胸を締めつけた。
苦い勝利だった。


「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月宿るらむ」
夏の夜って短いから、まだ宵の内だと思ってても、すぐに朝だぜ。空に残されてた月は、どこの雲にお泊まりなの?

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