百人一首物語その63 「ひとづて」

僕は、今、山を越えようとしている。市の北側にあるあまり高くない山だが、人の手がほとんどはいっておらず、いざ踏み入るとなると素人ではなかなか厄介だろう。山には慣れていないであろうヤクザたちは、かなり往生しているだろうと思う。それでも、向こうは人数しが多く、人探しには長けているだろうから、油断はならない。山岳部のくんれんで、慣れ親しんだ山だといっても、いつもと違って装備もない。さっきから下草が、露出した足首に細かい傷を付けて、地味に痛い。
だが、泣きごとは言ってられない。
追っ手たちは、僕が組長の女を寝取ったと思っているのだ。そして、それは半分は事実だ。まだ、やってないとはいえ、現場を押さえられてしまえば、そんな弁解が聞くとも思えない。あの場から逃げ出せただけでも、本当に奇跡としか言いようがない。
しかし、今でも、僕は信じられないでいた。まさか、あの子が、ヤクザの組長の女だなんて。あんな清純そうな彼女が。きっと何か事情があるかもしれないと思った。きっとだまされているんだ。利用されているんだ。彼女の手を取り、一緒に逃げたかった。
でも、それは叶わない。
だから。
せめて、彼女に別れの言葉を直接言いたかった…と、思うのだ。



「今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな」

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中


%d人のブロガーが「いいね」をつけました。