百人一首物語その80 「今朝」

「それが、どうやら夢魔に憑かれたらしいんだ」
「憑かれたって……?」
近藤は黙って頷いた。近藤の手の中で、グラスの氷がカラリと音を立てた。
夢魔は夢に現れ、精を吸う霊的存在だ。
普段は風に乗って移動を繰り返し、夜毎に違う相手の精を吸うのが普通であるが、たまに同じ夢魔に憑かれるヤツがいるという。話にはよく聞くが、実際に憑かれたというヤツを見たのははじめてだった。
「おい、マジかよ? だ、大丈夫か?」
俺は思わず、訊いてしまった。俺の問いに、近藤は力なく首を振った。
「わかんね。多分、憑かれてるんだと思うんだけど、なんせ覚えてねーんだ。俺、夢とか一切、覚えてねぇ方だからよ。前から」
「じゃあ、どうして憑かれてる事がわかったんだよ」
「そりゃ、お前……」近藤は自分の股間を指さした。「毎朝、勃たねぇんだから。そうとしか考えられんだろ」
EDじゃねえの? と口に出そうとしたが、その前に近藤に制止された。
「わかってる。そんだけじゃ、決定的じゃねぇ。もう一つある。瞼にな、焼き付いてんだよ」
「焼き付いてる? ……何が?」
「女だ。長い黒髪の女だ。それがこっちを見て笑っているんだ。その顔が、俺の瞼にカッチリ焼き付いてる。毎朝、おんなじ女だ」
「夢、覚えてないんじゃないの?」
「忘れてるさ。でも、その顔だけは、焼き付いて離れないんだよ」
そう言って、近藤は手にした酒を一気に呷った。
俺は、近藤の背中を叩いて言った。
「まぁいいや。今日は朝まで飲もうぜ。とことんさぁ。そうすりゃ、その夢魔も呆れてどっか行くだろうよ」
「おう!お前こそ朝まできちんと付き合えよ!!」
近藤はそう怪気炎を上げたが、1時間後には、カウンターに突っ伏して鼾をかきはじめた。いくら揺さぶっても起きない。俺が呆れていると、俺がトイレに行っている短い間に近藤の体は消えていた。カウンターには万札が一枚置いてあった。
翌朝、気になって下宿を訪ねると、案の定、近藤は戻ってきていた。どうやら、知らぬ間に寝巻きに着替えベッドで寝ていたらしい。下宿に上がらせてもらうと、あのゴキブリも避けて通りそうなほど汚かった下宿が、奇麗になっていた。ベッドのシーツなど、糊が利いてまるでホテルのそれのようである。
「おい、この下宿、どうしたんだ?」
「ああ、知らない内にこうなってた」
そう言って、近藤はコンロにおいてあった鍋から熱々の味噌汁をよそって食べはじめた。
これじゃあ、夢魔に憑かれたというよりは、女房を貰ったという感じだ。



「長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ」

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