百人一首物語その96「桜」

自慢の桜の花が、風に吹かれ一斉に舞い散る。
狭い庭には似あわぬ大きな桜だったが、清十郎はこの桜が大好きだった。
藩財政難の折、庭で作物を育て家計の足しにするようにとお触れが出た時も、清十郎は頑としてこの木を切らなかった。花が咲く頃には御馬番の長屋を集めて、酒を振る舞うのを毎年楽しみにしていた。それは清十郎が引退してからも変わらない。今年は、その日を迎えられない事が、清十郎の唯一の心残りといっても良かった。
「揺するな……あまり揺するな……里江よ」
清十郎は、良く出来た息子の嫁に話しかけるが、声になっているかは自分でも怪しいと思っている。それでも、清十郎は声をかけ続ける。
「悲しまんで良い。どうじゃ、儂の刀捌きは。昔は前田道場の四天王と呼ばれたもんじゃ」
里江は、涙を一杯浮かべている。
「泣くな。儂は、侍として、男として死ねる事を喜んでいるんじゃ。倅の居ぬ間、悪漢からこの家を守れた事が、おぬしを守れた事が、どれだけ嬉しい事か……」
里江は、涙を流しながら、私の鬢を撫で続けている。
やめろはずかしい…………と思うが、振り払う力もなく、清十郎はされるがままになっている。こんな様を、初枝に見られたら……清十郎はそう思いながら、桜散る庭を、縁側から眺めている。
まるで桜の花びらが、かすんだ目に、雪のように見える。
そう、初枝と初めて顔を合わせたのも、こんな雪の日だった。遠縁だという初枝は、叔母に連れられて、実に不安そうな顔で、清十郎を見ていた。あの時には、すでに叔母の策略で縁談も決まっていたようなもんだったが、そうでなかったとしても、きっとそういう運命だったのだろう。そう、清十郎は思っていた。その初枝も、三年前の流行り病であっさり逝ってしまった。
「もうすぐいくからな……初枝……」
清十郎の目に、雪の降る庭に立つ初枝の姿が、見えた。
清十郎は、満足げに目を閉じた。
「花さそふ  嵐の庭の  雪ならで  ふりゆくものは  わが身なりけり」
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