百人一首物語その94 「秋風」

2010年9月8日
「ちょっと、どこ行くんですか?」
「いいとこだよ」
僕の問いに、助手席の斎藤先輩が満面の笑みで答える。それを鼻で笑いながら、運転している河井先輩がルームミラーを見ながら言った。鏡越しに僕と視線が合う。
「今から、古の都にいくんだよ」
「え? 都? どこですか?」
「いいとこだよ」
そう言うと、斎藤先輩はニシシと笑った。
三人を乗せた車は湾岸線を一路西へ。神戸の繁華街三宮を過ぎ、元町を越えてしばらく行ったところで、車は止まった。
そこは、不思議な街だった。
ここに「昔の都」があったような事を思わせるような建物は一つもなかった。道の両側に雑居ビルは建ち並び、派手な看板が並んでいる。しかし、活気がある風には見えない。道には、お店の人であろうか黒いスーツを着た男が寒そうに立っているが、僕らを見ても、声をかけるでもなく、ただ、値踏みするように見るだけだった。近くに迫る六甲山からすっかり秋めいた冷たい風が、道を吹き抜けていく。
不安げな顔をしていたのだろう。斎藤先輩が僕に訊いた。
「この建物、なんだと思う?」
「えーと……ラブホテル?」
「惜しいな。というか、なんでお前連れて来なきゃならないんだよ」
「あの、すいません、僕、そういうの……先輩達の思いには答えられな……」
「おい!」そう言うと、河井先輩は僕の背中を力いっぱい叩いた。僕のジャンパーを打つ音が響き渡る。道に立つスーツ男達が、僕らを見る。「いいか。ここは福原だ。聞いた事あんだろ?お前、経験した事ねぇっていうから、連れて来てやったって訳だ」
「け、経験って?」
「いいから、怖がってちゃ、何にも出来ねぇぜ」
斎藤先輩はそう言うと、僕の手を握ってぐいと引っ張った。
「どっか知ってるか?」
「いや、俺もなぁ、知ってるトコ今日休みみたいでよ」
「俺も専門は琵琶湖の方だしよ」
「まぁいいか、適当で」
「いいんじゃね」
2人の先輩は、僕に聞こえる事もお構いなしで、密談を交わすと、一番近い建物に僕を連れて入っていった。建物の入口には、『福原京』とだけ書いてあった。
「すいません、こいつ、はじめてなんで頼みます。90分コースで」
そういうと、先輩たちはお金を置いて、出ていってしまった。
店の黒い服の男に、僕は待合室のようなところに案内された。妙に安っぽいソファに座らされ、落ち着かないことこの上ない。しばらくすると、さっきの男が、ここから出て向こうに行って下さいという。勝手も分からず、従うと、部屋を出た暗がりに、女の人が1人立っていた。
「はじめまして。沙織と申します」
その女の人は深々と頭を下げると、僕の手を握り、すっと腕を組むと、僕を先導して歩いた。
僕は、僕の肩くらいのところにある女の人の顔を見た。暗くてよくわからなかったが、色白でまつげの長い奇麗な人だった。彼女が、ふと僕の顔を見た。思わず、目が合って、僕は思わず俯いた。石鹸とくちなしのイイ香りが、鼻腔をくすぐった。
「さ、いきますよ?」
彼女の声と共に、ぐるんと、世界が一回転したような、妙な浮遊感がいきなり襲いかかってきた。僕は目を見開いた。そこには何も見えない闇だった。彼女の手が、僕の腕をしっかり掴んでいるのだけは鮮明に判った。僕の腕に何かとてつもなく柔らかいものが押し付けられていた。
ふ、と気が付くと、周囲に光が戻っていた。
くっきりとした影、強烈な夏の日差し。
土の匂い。
道を行き交う牛車、まるで雛人形の下の方にいる左大臣?みたいな男どもが腰から大きな刀を下げている。大きな道の両脇には、黒い瓦葺きと白い壁。まるで、大河ドラマのような現実離れした、その景色。
そして、私の手を取るこれまた雛人形の三人官女のような服を着た、さっきの彼女。
「ようこそ、福原京へ! さぁ、この古の都を、90分、存分にお楽しみ下さい。わたしがご案内致しますので」
「み吉野の  山の秋風  小夜ふけて  ふるさと寒く  衣うつなり」
古い都にきてみたら、秋風が吹くし、寒くて寂しいもんじゃね。
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百人一首物語その93「渚」

2010年9月7日
人工的に作られた小川に、笹舟がひとつ、またひとつと流れていく。きれいに折られた舟は母親、形の崩れた舟は女の子が拵えたものだろう。小川の先は小さな水たまりになっていて、藤棚がそれを囲んでいる。藤棚の作る日陰に作られたベンチには、子ども連れが数組腰掛けて、何か話をしている。
また、笹舟がふたつ、ふざけあうようにもつれながら流れてくる。笹舟を追って、ゆっくり小川べりを歩いていた幼女が、突然大きな声を上げ走りだした。下の方から他の子供たちの歓声も聞こえてくる。
水たまりの中央から、水か勢いよく吹き出していた。日の光に照らされ、水しぶきが白く輝く。その輝きの滴の中を、服を脱いだ幼女たちが輪を描くように走り回る。笹舟を作っていた子も、追いついた母親にワンピースを脱がされ、裸になってその輪に加わる。
私は、その夢のような光景を、目を細めて見つめる。
昨今は色々厳しくなって写真に撮ったりする事は出来なくなったけど、こうして見る事だ出来るだけで幸せだ。
こんな世の中が、長く続けばいいのになぁ。
「世の中は  常にもがもな  渚漕ぐ  あまの小舟の  綱手かなしも」

百人一首物語その92「乾く間もなし」

2010年9月6日
さる大店のお嬢様が何らかの病にかかったようで、一日中、泣いてばかりいる。それこそ、涙を拭いている着物の袖が、海底の石のごとく、乾く暇もないくらいだ。
お医者さんに見せても、一向に原因が分からない。次第にお嬢様が痩せ衰えていくのを見かねて、旦那様は、番頭に一か八か任せてみる事にした。
番頭がお嬢様の部屋に行くと、確かにすっかり痩せ衰えて精気がなくなってしまっていた。
「お嬢様。私はお医者さんではありませんからお薬を出したり、病気を治したりする事は出来ません。でも、話を聞くだけなら出来ます。何かあるのなら、どうかおっしゃって下さい。みんな心配しているのです」
お嬢様は、顔を少し上げた。
「でも、恥ずかしい……」
それだけつぶやくと、また俯いてしまった。
「大丈夫です。どんなことであれ、私一人の胸の中に仕舞います。ですので、どうかお教え下さい」
すると、お嬢様は顔を真っ赤にして言った。
「東海道中膝栗毛ってご存知ですか?」
番頭は頷いた。当代流行の黄表紙だ。弥次さん喜多さんがお伊勢参りをするという馬鹿馬鹿しい話だ。
「私、あの本がとても好きで……で、その……」
「なんですか?」
「私、弥次×喜多の同人誌が欲しいんです!」
「は?」
「でも、恥ずかしくて買いに行けなくて、そんな即売会なんて、一人で行くなんて考えただけで……でも、とっても読みたくって……」
「それで泣いていたんですか?」
お嬢様は顔を赤くして、こくりと頷いた。
「わかりました」番頭は胸を叩いた。「せっかく、私に教えてくれたんです。なんとしてもその本、お持ち致しましょう」
そう請け負ったものの、そんな本が普通の本屋にある訳がない。散々江戸中を探し回って、ようやく女性向けの同人誌を売っている店を探し当てた。
「すいません。ここに弥次×喜多本というのがあると訊いたのですが」
その店の女主人は答えた。
「はい、ありますよ。よく腐ってますよ」
「く、腐ってるんですか?」
「はい。とても腐ってます」
「腐ってる……あの、腐ってないのはないんですか?」
「腐ってないのは無いんじゃないかなぁ」
「あの、これだけ沢山あって、腐ってないのがないんですか?」
「大概腐ってるんですが……まぁ、これくらいならどうでしょう?」
そう言って一冊の本をさしだした。番頭はお礼を言い、園本を買うと、早速お嬢様の元へ飛んで帰った。
「お嬢様! 弥次×喜多の同人誌! 手に入れましたよ! 早くこれ読んで元気出して下さい!」
お嬢様は、内側から光るような笑顔で、番頭からその薄い本を受け取り貪るように読みはじめた、しかし、次第にそのお顔から笑みは消えていった。
「ど、どうしたんですか?お嬢様?」
薄い本を読み終えたお嬢様は、ガッカリした顔で番頭に聞いた。
「この本、どこで買った?」
「秋葉原という所です」
「そりゃダメですわ。同人誌はやはり、晴海に限る」
(※江戸時代なので、コミケ開催場所が古い)
「わが袖は  潮干に見えぬ  沖の石の  人こそ知らね  乾く間もなし」
私の袖は、引き潮の時にも海の上に出ない改定の石みたいに、人知れず乾く事もないわ。泣きすぎちゃって。

百人一首物語 その91「きりぎりす」

2010年9月5日
秋の虫の鳴き声が、遠く聞こえる。厳しかった残暑もようやく過ぎ去り、クーラーを消して、窓を少し開けて寝る事が出来るようになった。
もういい加減、寝よう。
読みかけの本を置き、ベッドサイドの明かりを消す前に、傍らで眠る俺の嫁に、おやすみのキスをして、俺は、一人寂しく眠りにつく。
俺の嫁は、なんで抱き枕なんだろう。
「きりぎりす  鳴くや霜夜の  さむしろに  衣片敷き  ひとりかも寝む」
コオロギの鳴く、霜の降る寒い夜。誰に腕枕をするでもなく、一人で寂しく今日も寝る訳だ。

百人一首物語その90「袖」

2010年9月4日

こんばんは。今日、皆様に自信を持ってご紹介する商品はコレ! あの雄島の海女が認めた長袖シャツ『イロアセーズ』です。

なんと、この長袖シャツ、この鮮やかな発色が全く色褪せしないんです。 そうですよね。俄には信じられないと思います。では、さっそく実験してみましょう。この長袖シャツをこのように、えいえいえーいと、このようにビショビショに濡らします。色褪せの原因は水濡れですからね。さぁ、このくらいでいいでしょうか。さぁ、これをぎゅーと絞って、見て下さい! 全く色が着いていませんね。そして、長袖シャツもこのように……全く色褪せしておりません! どうですかお客さん。

さらにさらにですよ? 水だけではありません。 ハイ、ここに用意したこの紅茶、イギリスの最高級ダージリン、素晴らしい香りですねーっと!おっと!長袖シャツの上にこぼして仕舞いました!大変です! でも、ご安心下さい。このようにただの水……お客さんただの水ですよー、これで軽く洗って、こう絞ると……全く紅茶の色が着いてない! 勿論、色褪せもゼロ!! 毎日、海で泳ぐ海女さんが認めた品質、みなさまにもお伝え出来ましたでしょうか。

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「見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず 」

百人一首物語その89「たまの」

2010年9月3日
「私も、仕事柄、曰く付き物件とかに接する事が多いんでね。色々なところで勉強させてもらっているんですけどね。人というのは……まぁ人でなくてもそうなんですけど。肉体と魂に分別できる訳です。これは普段は決して分けられない訳なんですけど、何かの拍子に、この繋がりが弱くなっちゃう時がある訳なんですよ。幽体離脱とか、そういう感じですよね」
私は、その不動産屋さんの営業トークを聞いていた。そのトークは本当に滑らかで抑揚のある聞き取りやすいものだった。私は、はぁ……と頷くより他にはなかった。
「でも肉体と魂は決して外れる事はない。それは、魂の緒と呼ばれています。魂はおたまじゃくしのような形をしていて、その長い尾は、肉体にまで届き、、結ばれているという訳です」
「では、ウチに出た幽霊は? 祖母なんて亡くなられてから、随分立っていますよ」
私は聞いた。すると、不動産屋はニヤリと笑って言った。
「ええ。ですから、その魂の緒が、何かに結ばれているようなんですよ。だから、その幽霊は、いつまでも成仏せずに、部屋の隅でいるんです」
そう言って不動産屋さんは、そう言った。
「ど、どうすればいいですか?」
私の問いに、不動産屋は答えた。
「簡単です。魂の緒を見つけ出して、その結び目をほどけばいいんですよ」
「はぁ」私は溜息ともに返事をした。
「たまの緒よ  絶えなば絶えね  ながらへば  忍ぶることの  弱りもぞする」

百人一首物語その88「難波」

2010年9月2日
「彼女は、ここら辺では見ない制服を着て、駅前の広場に座っていたんだ。丸い石で出来た椅子に腰掛けてね。長い髪が似合っててね。夕方の人待ちが多い広場の中でも、ひときわ目立っていたよ。僕がいつも座っているコーヒーショップの窓際の席から、彼女の座っていた場所はちょうどよく見えたんだ。いつものように、ノートパソコンを持っていって、仕事をしていたんだけど、どうにも捗らなくってね。窓の外と時計ばかり見ていた。だから、彼女が1時間以上同じところに座っているって事に気が付いたんだ。僕はそれでも、なんとか時間通りにその日のノルマの分を書き上げて、コーヒーショップを後にしたんだ。妙に寒い日でね。店を出ると、僕は大きく身震いをしたんだ。まるでネコみたいにね。その様子を見てたんだろうね。ふと顔を上げると、彼女が……そう丸い石に座っていた彼女が、口に手を当てて、僕を見て笑っているんだ。僕も、つられて笑ってしまったよ。そう。僕が笑われているのにね。僕は、自然に丸い石の前に行くと、彼女の前にしゃがみ込んだ。『大丈夫かい?』僕はそう訊いた。すると彼女は『大丈夫よ』って。『本当に? だって、ずっと舞っていたんじゃないの?』すると、『あなたも、ずっと見ていたのね』と言った。だから、僕は仕事だと言ったら、彼女も仕事だと答えたんだ。彼女は制服を着ているのにね。おかしいだろ?」
「で? 君はその子と一緒にご飯を食べて、ホテル代を出してやったのかい?」
「あれ。よくわかったね。この話、した事あったっけ?」
「いやぁ。まぁーねぇー」
「難波江の  蘆のかりねの  ひとよゆゑ  みをつくしてや  恋ひわたるべき」

百人一首物語その87 「村雨」

2010年9月1日

私がこの山に入ってから、すでに2時間が経過していた。

下調べの段階から私のカンが、これはいけると囁いていたのだが、実際に来てみるとそれは予想以上だった。 これは、パワースポットとして売れる! そう確信していた。

あとは「目的地」さえあればいい。私は古地図を片手に、その「目的地」を探していた。

私は、昨今のパワースポットブームにのって、パワースポット専門のライターとして、おいしい仕事にありついている。

この仕事は、パワースポットを村起しにという、とある自治体の依頼で来ている。なかなかおいしい仕事だ。なにより、下調べで集まる資料が段違いで多く、いつもこんなに順調ならと、思うくらいだった。

ところで。正直、私にはパワーとかオーラとか、そういうものが分からない。 以前は心霊関係や、トンデモ系の取材を多くこなしていた。だけど、私自身は全く霊感はなかったし、その手の疑似科学も信じていない。 だからこそ、イイ記事が書けるのだと、私は信じている。感じないからこそ、一つ一つ、誰にでも分かる事実を積み重ねて、そういう感覚の輪郭を形作っていけるのだ、と思っている。

この場所は、下調べの段階から、なかなか興味深い事実が多数あり、それを裏付けるような写真も撮れていた。ここがそういう場所の条件を兼ね備えているのは、もはや間違いない。

問題は、「目的地」だ。観光化するには、「目的地」がいる。「やってきたんだー」と思わせる目印/アイコンの類いだ。これがあるのとないのとでは、与える効果が段違いになる。いくら楽しくても、ミッキーマウスのいないディズニーランドは、物足りなく感じるだろう? そういうものなのだ。いくら、この山道が針葉樹林独特の清々しい雰囲気に満ちあふれていても、それだけではダメなのだ。

私は、古文書の書かれていた、小さな祠を引き続き探した。 と、急に小雨が降り始めた。

雨は、檜の葉を細かく揺らした。 雨はじきに止んだ。 檜の葉が陽に照らされ、沸き立つように霧が周囲を覆いはじめた。 それはまるで、瞬時に水墨の世界に連れていかれたかのような体験だった。

霧が音を吸うのか、周囲から色が消え失せるのと同じく、音の一切がかき消えた。

その静寂の中、私の目の前に、一体の獣がいるのに気が付いた。 それは神々しいまでに大きく、銀色に輝いた獣だった。

私は、それをオオカミだと思った。

どれほどの時間が経ったのだろうか。 気が付くと、あれほどまでに周囲に立ちこめていた霧は消え、音は戻ってきていた。オオカミは消えていた。 オオカミが立っていた場所には、小さな祠があった。手を合わせてから、祠の扉を開けると、中にはオオカミの形をした、こぶし大の石が入っていた。

私は、山を後にした。

「村雨の 露もまだひぬ 真木の葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮」

百人一首物語その86「月」

2010年8月31日
そんな訳で、僕は、母方に狼男の血を引いている。
だから、満月の夜ともなると、こう、血が熱くなって仕方がなくなるのだ。
嗅覚・聴覚が鋭くなり、身体能力も段違いに高くなる。流石に耳が生えてきたりしないけど、本当、自分としてはワイルドさ6割増しっ感じになっちゃう。
とは言っても、僕は生粋の日本人なので、狼の方も日本産。
つまりは、絶滅したニホンオオカミの血なので、いささか迫力には欠けるのいかもしれない。ニホンオオカミの現存する標本を一度だけ見た事があるけど、それは思ったよりずっと小さいもので、昔話とかからイメージしていたから、ちょっとガッカリすると共に、もの悲しくもなってくるのだ。
月夜に吠える僕は、あの剥製となったニホンオオカミの気持ちがわかる気がする。たった1人、生き残り、山を放浪していた、その気持ちが。
だから、今日みたいな月の日は、涙が出てしまう
僕の中の狼の血が、そうさせるのだ。
あの剥製にされた狼の悲しみが、そうさせるのだ。
「嘆けとて  月やは物を  思はする  かこち顔なる  わが涙かな」
なんか、月に嘆けと言われた気がする。そんな感じにかこつけたい、僕の頬の涙なのだわ。

 

百人一首物語その85「閨」

2010年8月30日

君は、未だ見ぬ彼女との性行為を、心の裡に思い描いた事はないだろうか。

彼女をベッドの脇に立たせ、軽く唇に触れるようなキスを3回、その後に深い大人のキスを1回。そして、お互いの目を見つめ合ったあと、軽く頬に、そして白く細い首筋にキスを……と妄想した事はないだろうか。

そして、妄想は加速する。

彼女の艶めかしい肢体を余さず脳裏に焼き付ける為、その恥ずかしい姿態を鏡に映し彼女の羞恥心を煽る為、君は、その野獣のような行為を、全て明るい部屋で行うだろう。そして、その欲求は果てしなく高まり、窓を開け放し、他人の視線を意識しながら妄想の中の行為を成す事だろう。そして、思うのだ。みんな、そうに違いないと。だって、君の持っているエッチなビデオやマンガは、大抵がそうじゃないか!

かくして、明けやらぬ夜を、自転車で疾駆し、ラブホテル街を目指すのである。君の妄想の中の常識では、ラブホテルの窓は全て開け放たれているはずである。

そして、実際には、ぴしりと閉ざされた窓を見上げ、君は現実を知る事になる。世の中に横たわる、冷たい現実を。

「よもすがら 物思ふころは 明けやらぬ 閨のひまさへ つれなかりけり」

いとしい人の事を思うとなかなか眠れないの。朝になれば、この切なさも消えるのだろうけど、夜はなかなか明けないの。朝日が差し込んでこない寝室の隙間って、なんて私に冷たいんでしょう。もう!