気が付くと、私は日本庭園に立っていた。
月の蒼い光が、荒れた庭を照らす。
鈴虫の音が寂しく聞こえた。
私はゆっくりと、庭を歩いた。明らかに、明らかにさっきまで、私が夜の散策を楽しんでいた場所と、ここは違っていた。
さっきまでの私は、里内裏跡の遺跡を歩いていた。こんな庭も、建物も何もない。単なる遺跡だ。
場所どころか、空気すら違っているように感じている。
歩いているうちに、庭の向こう、闇の中に佇む建物が里内裏だとわかってきた。
これはよく出来ている。
日本のどこに、このような建物があったのだろう……私はいぶかしがりながらも、庭を歩いた。
ふと、軒下にノキシノブがぶら下がっているのが見えた。
あぁ。
となると、これはあの百人一首に詠まれたあの軒端なのかもな……と思い、引き寄せられるように、私はそのノキシノブへと歩いていった。
「誰じゃ」
私は息を飲んだ。
まずい。
知らぬ間の事とは言え、私は知らない人の庭を勝手に歩いていたのだ。警察に突き出されても文句は言えない。
私はおそるおそる、声のする方を見た。
そこには、平安貴族がいた。それも、かなり位の高い装束を身に着けていた。
「……順徳天皇……」
ノキシノブの連想に囚われていた私は、ついその一首を詠んだ本人の名を口に出してしまった。
「ほう……それは朕の諡(おくりな)か?」
そう言うと、その男は実に楽しげに笑った。
私は咄嗟に土下座をした。
その服装、その雰囲気……私は電撃で撃たれたかのように、この男が古の天皇陛下、あるいはそれに準じた地位の者なのだと思ったのだ。
理論的にはあり得ない。
ただ、それは直感的な確信だった。
だから、土下座をした。これが礼法的に適当か、その当時の研究をしているとは言っても、私には判らなかった。そもそも、その時代、平民が陛下に直にお目通しする事などあり得ない。だから、どうしていいか判らなかったのである。
地面に頭をこすりつける私に、男は静かに言った。
「よいよい。そのようにせずともよい。楽にせよ」
私は顔をあげた。男は、渡り廊下でしゃがみ込んで、私を見てニコニコ笑っていた。
私はその頃には、これは夢だと思いはじめていた。リアルな夢だが、過去に思いを馳せながら遺跡を歩いていると、こういう事も起こるような気がした。
「ほう。面白い幽霊だの」
「は、私は幽霊に見えてますか」
「うむ。昔からよく見える。しかし変わった霊じゃの」
「は、はぁ」
「しかし、順徳か。よい諡じゃな」
「いや、あの、貴方様が誰か分からないので、そうと限った訳では……」
「諱は守成。後鳥羽天皇の第三皇子だ」
それならば、ノキシノブの一首を詠んだ順徳天皇に間違いない。
私は頷いた。
「ほう。諡を知るという事は、朕が死んだ後の世界にいきておるのじゃな。そりゃ、面妖な幽霊じゃ」順徳天皇は、ひとしきり笑ったあと、急に神妙な面持ちで訊いてきた。「して、そちは朕が死んだ痕の世界から来たのじゃろ? なら、教えよ。朕はどうやって死ぬのじゃ」
私は答えなかった。
答えられなかった。
まさか、最後まで時代に抗い、敗れ、佐渡に流された後、自ら断食の上、焼け石を頭に乗せて命を落とすなどと、本人に言える訳がなかった。
私は黙って、頭を下げた。
ふっと、順徳天皇が笑ったように感じた。頭を上げると、既に向こうへと歩いていくところだった。
順徳天皇は、立ち去りながら、のちに百人一首に選ばれる一首を朗々と詠み上げた。
私は、その後、元の世界へと戻ってきたのだが、あの時、順徳天皇が詠んだ一首が、その時に作られたものなのか、或いは、自らの後の運命を覚悟している事を、私に伝える為に詠んだのかは、未だにわからない。
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「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」
宮中の古びれた軒から下がったノキシノブを見るに、しのんでもしのびきれない昔のコトなんだよなぁ。
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